FC2ブログ

北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

ある時と無い時

 12月2日の礼拝で、下記のようなことをお話しました。(これは、礼拝メッセージの断片集ですね)

 関西人が好きな食べ物に「551」の豚まんがあります。北海道に無いのが残念です。この「551」ののCMも関西ローカルでとても有名で、関西人なら誰でも知っているでしょう。「551がある時〜♫」、それは家族団欒の楽しいひと時ですが、「551が無い時」はお通夜のように暗くなります。CMではこれを繰り返り、「551がある時〜」「551が無い時〜」となります(笑)

551がある時

 ヨナ書4章で、この時ヨナは「とうごま(植物の名前)がある時」、非常に喜びました。聖書も「非常に」と強調しています。ヨナ書でヨナが喜んでいる唯一の場面でしょう。しかしそのとうごまが枯れてしまった時、つまり「とうごまのが無い時」、生きているより死んだ方がましだと怒りを露わにしました。言ってみれば「551」のように、「とうごまがある時〜」「とうごまが無い時〜」という様子です。

とうごまがある時

 ヨナの喜びが、どれだけ周囲のものに左右されている喜びかということがよく分かります。ヨナはとうごまを非常に喜んだのであって、とうごまを与えてくださった主なる神を大いに喜んだのではありませんでした。

 そしてそれゆえに、喜びが与えられたことに対する感謝がないことに私たちは気付きます。私たちの喜びが主なる神と結びついてない時、すなわち喜びを与えて下さった愛の神への感謝がない時、その喜びは次の瞬間に容易に裏返ることになります。それは、とうごまという外的な条件が取り除かれると、たちまち不平に変わっていったヨナのようにです。

 神への感謝のない喜び、そこにヨナの喜びの限界があります。

 注意していただきたいこと、与えられたものを喜んではならないということではありません。今日の夕食に私の好きな一品が出てきたならば、そういうことも感謝して喜んでいいのです。もし「551」が食卓にあったら喜ぶでしょう。しかしそれだけではなく、この「551」を美味しいねと言って一緒に食べることができる家族がいること、そしてこの「551」やそれを喜び合える家族を与えて下さった主なる神に感謝し、神ご自身を私たちはもっと大いに喜ぶことが、信仰の、命の源となっていくのです。

 「ある時と無い時」から「あっても、無くても」という恵みに私たちは招かれているのです。

(1日1章 使徒22章「わたしに語りかけた」)

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 北見情報へ
にほんブログ村
礼拝メッセージの断片集 |
| ホーム |