FC2ブログ

北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

スパッと切り取っていただく

 1月27日(日)の礼拝では、久し振りに日本へ帰って来られたGさんを「おかえりなさい」と歓迎しました。また今週、札幌へ行かれるSさんを祝福の祈りで送り出しました。当たり前のことですが出会いがあれば別れもあります。だからこそ今日という日、目の前にいる一人ひとりに誠実に接していきたいのです。

 礼拝後はお弁当愛餐会、そして昼食で帰られる方々に恵みを分かち合ってもらう「シェアリング」の時を持ちました。そして昨年の決算や活動報告、今年の予算や活動計画、教会が大切にしていることなどを確認する「1年の指針」の時を持ちました。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190127

 ペルガモの教会への手紙には、「鋭い両刃の剣を持つ方が言われる」と冒頭にあります。ヘブル人への手紙 4章 12節を思い起こします。「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる」

 神の言葉は私たちを励まし、強め、生かすものです。それはまた同時に鋭く、私たちの心の思いと志とを判別することのできるお方の言葉でもあります。私たちの内面にあるもの、真に大切にすべきものは何か、人の目には良く見えても、キリスト者あっても惑わされそうなこと、迷っていること、そういうものであっても、神の言葉はスパッとその両者を切り分けることができます。私たちが良いと思っているものでも、主の目には良くないことが多くあります。悪いものはスパッと切り取っていただく、そういう力が神の言葉にあります。



 キリストの言葉を味わい、食すことなしに、信仰の力は湧いてこないのです。神の言葉によって、霊的な識別力を持つことができるのです。 



 エミー・カーマイケルは、次のように述べています。「もし身に覚えがないことで攻撃されて、深く傷つくならば、そしてこの道は罪なき救い主が死に至るまでたどられた道であることをもし忘れるならば、その時わたしはカルバリの愛をまったく知らない」と。

 キリスト者は「あの人の言葉に傷ついた」とか、「まだ謝ってもらっていない」とか、そういう恨み・つらみ、怨念の次元で生きていくものではないはずです。私たちの主イエスは、誰よりも傷つき、裏切られ、ののしられたお方ではありませんか。しかも私たちのためにそういう十字架の道を歩まれたのではありませんか。そういう救い主を信じている私たちが、何の傷も受けないで信仰生活を歩んでいくということはないはずです。カルバリ山の十字架の愛を受けた者は、自分が傷ついても、背負うべきものを背負う、そういうキリストの力を持って生きていける、キリストの証人になって歩んでいくということでしょう。



(1日1章 ロマ10章「差別はない」)

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 北見情報へ
にほんブログ村

礼拝メッセージの断片集 |
| ホーム |