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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

白い小石にまつわるエトセトラ

 2月3日の礼拝メッセージで、ペルガモの教会に宛てられた手紙を分かち合いました。その中で、白い石について、以下のような説明をしました。

 「勝利を得る者には、白い石を与えよう」と主イエスは言われました。「白い石なんて別にいらない」なんて言わないでくださいね。これはいろいろな解釈があり、全てを説明することはできません。例えば、当時の法廷では無罪宣告の時は白い小石が、有罪宣告の時は黒い小石が投じられたと言われています。つまり主イエスを信じて歩み続ける者は、、あなたは罪の無い者、赦された者として主イエスに迎え入れられると理解することもできるでしょう。

 またこの白い石には、これを受ける者にしか知らない新しい名前が書かれているそうです。そこには、キリストの名前が書かれている、いや、私たちの名前が書かれているとも言われています。黙示録は言葉の端々を解釈すること以上に、この書を送られた方の心を知るということがとても大切です。ここでは、隠されているマナをわざわざあなたにあげたい、その白い石を見た時に、自分にしか分からない名前が書かれている、言わば私と主イエスしか知らないということであって、主イエスからの親しさを私たちは受け取ることができます。

20190203

 山登りの好きな人は、ヒマラヤの石、ロッキー山脈の石などを持ち帰ります。そういうものをお土産でいただいても、普通はいりません。しかし共に山に登った者同士は、あの時の苦しみも、そして達成感も、その石を見ることによって思い出されていくものです。

 ペルガモには立派な大理石で造られた大きな神殿があり、それは壮大な神殿だったかもしれない。ドイツのペルガモン美術館に蔵するほどの立派な石でした。しかし私たちと主イエスの関係には、博物館におさまる史跡、遺物ということではなく、命の関係、親しい関係があります。みんな同じということではなく、あなたは主イエスに「あなた」として知られているのです。他の人に理解されなかったとしても、人の目には分からない忍耐の伴う労苦だったとしても、主イエスそれらをみんな知って下さっているとも言えるでしょう。



 礼拝メッセージでは触れませんでしたが、先月のオリーブ会(図書館での三浦綾子読書会)で読んだ『泥流地帯』にも、実は白い小石が出てきます。

 耕作は、福子からもらった白い小石を、袋にいれて腰につけている。金を落した時、姉の富が巾着代わりにつくってくれた袋だ。この小石を持っていると、必ずよいことがあると、福子は言った。耕作は今でもそれを信じている。中学に一番で入れたのも、白い小石のおかげだと思っている。中学をやめたのは、白い小石のせいではなく、自分で決めたことだと思っている。『泥流地帯』矢車(二)より



 キリスト者は「お守り」を持ちません。耕作が持っていたのは良いことがおこる白い小石ということではなく、自分の人生に「幸あれ」と願う福子の気持ちをこそ大事に持っていたのでしょう。そして耕作は家庭の事情のために中学入学を断念せざるを得なかったことを、「白い小石のせいではなく、自分で決めたことだと思っている」というこの一節が、私にはとても光って見えるのです。

白い石

 そして思い出したことがもう1つありました。それは我が家にも白い小石があったことです。この白い小石は、私が海岸で拾ったものでした。それ以上のことは、小っ恥ずかしくて書けません(笑)

(1日1章 Ⅱサム2章「いつくしみと真実」)

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