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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

熱いか、冷たいか

 出かけていた前の週を終えて迎えた3月10日の日曜日、新しい一週間を新しい気持ちで教会の皆さんと礼拝をもって始めることができる幸いを味わっていました。一週間ぶりに皆さんの顔を見ると、ホッとする思いがあります。

 この日は、会堂の椅子の並び方をアレンジした最初の礼拝でした。まずまずの快適さ(?)だったと思うのですが、献金係の動線については再考の余地があるようです。礼拝出席者が増えてきたという、嬉しい悲鳴の中での試行錯誤ですね。

 ただ、出席者の増加と比例するかのように、子どもたちも含めて一言も会話を交わせないで日曜日を過ごしてしまう方が何人かおられることは、ちょっと寂しいものですね。

 以下は、礼拝メッセージの断片集です。ただ、時間の都合で、礼拝の中では話せなかったことも含んでいます。

20190310
(250字のエッセンスは、コチラ

 主イエスはラオデキヤの教会に、「熱くもなく、冷たくもなく、生ぬるい」「熱いか、冷たいかどちらかであってほしい」と言われました。信仰姿勢として「熱くなれ!」だったらよく分かるのですが、「熱いか、冷たいかのどちらか」という表現に「?」を覚えるかもしれません。

 実はラオデキヤの近くの地域、ヒエラポリスには有名な温泉があり、またもう一つの近い町コロサイには冷たい飲料水の水源がありました。自分たちの富を得るため、また社会的な評価を得るため、温泉は熱くなければいけないこと、また特別な水道管を敷いて冷たさを維持しフレッシュな水を供給すことを、ラオデキヤの人々は知っていました。両者は「熱いか、冷たいか」でなければならず、生ぬるいということが良くないのです。

 自分たちの富のためには、そういうことがわかるのに、信仰に関して、また霊的なことになると、「これほどでいいんじゃないか」というような、真剣さに欠いている、生ぬるさというものがラオデキヤ教会の信仰姿勢だったようです。



「見よ、私は戸の外に立って、叩いている。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまた食を共にするであろう」黙示録3:20

 聖なる主イエスにとって吐き出したくなってしまうような罪や生ぬるさが、私たちの内にないでしょうか。主イエスは、今日も生ぬるさを抱える私たちの心の扉を叩いておられるのです。ここに主イエスの愛があります。吐き出したくなるような人とは、少しでも一緒にいたくないと思うのが人情です。しかし主イエスはどんな汚い罪をもった人も、都合の悪いことを隠し外側を繕っている人も、神の国と神の義を第一にできないそんな私たち、愛することの小さな私たち、目の前にいる人に善を行いたい、優しくしたい、和解したい、しかしできなくなる惨めさを覚える私たち、そんな私たちと共に食事をしたい、親しく交わりたい、生活の全てに関わりたいと願われるのです。

 ここで「食事をする」と訳されて いるギリシャ語は、「夕食」を意味する言葉です。夕食は一日の仕事を終えて食べるので、ゆっくりと時間をかけて食べていました。主は、あなたとゆっくり時間をかけて話をしながら食事をしたいと願っておられるのです。大切な人とはたくさんの時間を取るように、主イエスはあなたとゆっくりと交わりたいと願われるのです。
 
 主イエスは、全知全能の神ですから、私たちの心の扉をねじ開けて入ってくる事も可能です。しかしそうなさらずに、戸の外に立って忍耐強くノックし続けるのです。何故でしょうか。私たちが主の愛に応じることを、主体的に応える愛を求めておられるのです。主は私たちを征服なさるのではなく、愛による交わりを求めておられるのです。



(1日1章 Ⅰコリント12章「いたわり合う」)

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