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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

それらは親戚関係です

 3月最後の日曜日。前の週は紋別へ出かけていたので、久しぶり感もありました。帰省などをされている方々もおられましたが、初めてお会いする方々もおられました。気温は低いものの、柔らかい日差しに包まれた朝で、「ちょっと元気がないかもしれない。あるいは眠いのかなあ。お疲れなのかなあ」と思われる方々に、「主よ、十字架の言葉を聞くことで新しい力を与えてあげてください」と講壇の上で祈りつつ、聖書のメッセージを語りました。以下は礼拝メッセージの断片集です。

 ピラトは、群衆に妥協しました。この世と妥協したのです(ロマ12:2)。「みんなが言うから」、「仕方がない」ということでしょう。何が神の御旨なのか、何が善なのか、これは神に喜ばれることか、そういうことを問わなかったのです。判決に際して、ピラトは群衆の声ばかり聞いています。神がどう思われるか、何が本当に大切なことかを問うのではなく、その場の声に流されています。大切なことにおいて、妥協案、折衷案、「まあまあまあ」という誤魔化し、その場だけの事なかれ主義に陥っていないか、自分自身に問いかけたいのです。



20190331
(250字のエッセンスは、コチラ

 ねたみは、恨みやつらみとなっていきます。それらは親戚関係と言っても良いでしょう(御霊の実も、親戚関係でしょう)。ねたみを抱えたままでいる時、相手を生かさないだけではなく、自分をも生かさないのです。本当はねたみや恨みが絡まった人間関係を終わらせたいのです。しかし同時に、その恨みがあまりにも強いゆえに、「終わらせてなるものか!」という気持ちも抱いてしますのです。この怒り、こんな恨み、それを抱えたまま生きていくことは苦しいなことだと分かっているのに、私たちはそれを終わらせられないのです。辛いことです。



 結局、その日、十字架にかかるべき予定であったバラバがゆるされることになりました。バラバが担ぐはずの十字架を、主イエスはご自分の十字架として背負われるのです。本来、十字架にかかるべき者がゆるされ、その十字架を丸ごと主イエスは引き受けられたのです。

 バラバとは誰でしょうか?バラバとは、他の誰でもない私のことです。私のかかる十字架、私が受ける罪の罰、自分で洗い流せない恨み、終わらせられない罪の連鎖、そういうものを主イエスが全部引き受けて代わってくださったのです。ここに救いがある、ここに愛がある、愛とは身代わりになっても良いということです。



 「あいつを殺せ、十字架につけよ」と群衆の叫ぶ声を主イエスは黙って聞き続けます。その主イエスが、大声で叫ばれたのは「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」という祈りです。何をしているのか、何をしたいのか、罪の恐ろしさの全てを知らない私たちのために、祈られるのです。自分を「殺せ」と言う者のために、主イエスは「彼らを赦してください」と祈られるのです。この主イエスの赦しの言葉、十字架の言葉を私たちは信じていくのです。この主イエスの言葉を信じて救われるのです。



(1日1章 Ⅰ列17章「わたしの罪を思い出される」)

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