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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

自分のために泣く

 4月最初の日曜日(4/7)、受難節ということもあって、十字架に向かう出来事をご一緒に分かち合っています。「ちょっと難しいなあ」と思う聖書箇所で、「やはり違うところからにしようかなあ」と何度も思いました。自信はありませんでしたが、聖霊に励まされながら最初に決めたとおりの聖書箇所からメッセージを取り次ぎました。(以下は、礼拝メッセージの断片集です)

20190407
(250字のエッセンスは、コチラ

 (28)「イスラエルの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい」と主イエスは言われました。これはどういう意味でしょうか。

 私たちの感覚では、少しこの主イエスの言葉に「?」を覚えないでしょうか。自分自身のことで泣くのではなく、主イエスのために涙を流す、それが信仰者だと思うのです。それは間違いではないでしょう。しかし主イエスはここでは、そうは言われません。「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と子どもたちのために泣きなさい」と言われます。

 主イエスのそばに仕えられた女性たちであれば、主イエスの姿を見て「なんてひどい」「おいたわしいことだ。かわいそうに」と思って嘆き悲しんでいたことでしょう。その気持ちはよく分かるのです。しかし、少し卑近な例をあげるならば、映画やドラマでひどいシーンを見て涙を流すことがあります。そして口には、ポップコーンを運びます。感動の涙も流すのです。そして映画が終わったら「さあ、美味しいものをどこに食べにいく?」、大げさに言えばそういう涙に通じていくものがあり、それは違うと主イエスは言われるのです。

 ドラマを見ながら感情移入をする、それはドラマの中のことです。ある面、自分の人生とは関係ない涙です。しかし主イエスは、彼らが泣いているその涙の方向、また涙の意味が違うと言われるのです。単に十字架に向かう主イエスに同情し、「主よ。嘆かわしいことです」と流す涙は違う。主イエスは不当な十字架を背負い、むち打たれ、つばきされ、ののしられながら、ゴルゴタの丘に向かっていかれます。これは一体何のためか?「それは、あなたの罪のためですよ」と、主は語れるのです。

 この主イエスの言葉を簡単に言えば、「自分の罪のために泣きなさい、悔い改めの涙を流しなさい」ということでしょう。さらに言えば、「自分の罪に泣いてもいいんだ」と私たちを招かれるのです。

 「あの人がどうとか、この人が分かってくれないとか、無理やり背負わされたとか、家族や職場の方の理解がないとか、どうして自分だけこんな目に遭うのかとか、今の政治家が悪いとか、ひどい世の中だとか、もっと社会はこうあるべきだ」そういう訴えもあるかもしれません。

 しかし周辺の問題は1つ解決しても、また1つ新たな火種が起こり際限ないものです。本当の問題は、自分自身にあると気づいて、自分自身の罪をこそ嘆くことを主は勧めておられるのです。「自分の弱さを隠して、評論家にならなくていい。愛のない正論を叫ばなくてもいい。自分自身の内側にあるどうしようもできない弱さを隠して、自分を上手く見せなくてもいい。それを見つめる、主イエスに打ち明ける、辛いこと、悲しいことです。しかし主イエスは、そのことを思いっきり泣きなさい。嘆き悲しみなさい」と言われるのです。なぜなら、それこそ御心に適う悲しみ、あなたを悔い改めに導き、十字架の救いに導く、復活の喜びにつながっていくからです。

 そういう救い主、主イエスの後を私たちは一緒に歩んでいくにです。罪を悲しむ教会でありたいのです。自分の罪を、また隣人の罪を「我らの罪をお赦し下さい」と祈り、愛と赦しを受け取る教会でありたいのです。そして十字架の向こう側に必ず復活があると信じて希望をもって歩む教会、キリスト者でありたいのです。



(1日1章 Ⅱコリ2章「神のみまえで」)

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