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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

降りられなかったのではなく

 4月14日、妻は奏楽者のHさんと一緒に紋別での礼拝に出かけました。北見を任された私は、皆さんと一緒に受難週の礼拝を捧げました。

 以前にCさんが「賛美の時に男性と女性で分かれて歌いたい」と言われていたので、「男性の皆さんでご一緒に歌いましょう」とか「それでは女性の皆さんで」「ご一緒に」というように賛美リードをしました。女性の皆さんだけで賛美される声の美しさ、男性の皆さんの力強さ、一緒に賛美できる喜びが湧き上がってきました♫ 以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190414
(250字のエッセンスは、コチラ

 十字架の上で「父よ」と、神に呼びかけた後に続く主イエスの願いは何だったでしょうか。もし私たちが冤罪で十字架にかけられたとしたら、その時、何を祈り何を願うでしょうか。普通は、恐らく「神よ、ここから降ろしてください」、「彼らを罰して下さい」、「私をこのような目に遭わせた者たちの目を覚まさせてください」、「こんな不当なことがまかり通る社会でいいのですか」という言葉かもしれません。

 しかし主イエスは「彼らをお赦しください」と祈られるのです。周囲の人々は一瞬、我が耳を疑う言葉だったでしょう。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈り願うのです。今、自分をののしり、上着も下着も奪い、くじ引いて我が物にしようとしている者ために、またあざ笑い、自分を十字架にかけている人々のために、そして他の誰でもない私のために罪の赦しを祈られたのです。



 「王ならば、神の子ならば、救い主ならば、だったら十字架から降りて来い。自分を救え。自分自身を救えなくて、どうしてこの世を救うことができるのか」、そう人々は言ってののしりました。

 主イエスは、十字架に釘付けにされていたから、だから降りられなかったのではありません。全能の神の子ですから、十字架から降りることなどいとも簡単にできるのです。主イエスは十字架から降りられなかったのではなく、降りなかったのです。私たちの罪を身代わりに背負うための十字架ですから、それを途中で放棄されないのです。苦しみの十字架から降りてご自身を救うということとは全く違って、十字架にかかることによって私たちを救うのです。



 主イエスの十字架の救いによって、私たちは父なる神との和解が与えられます。この神との和解というものが、実は私たちの人生に決定的に大切なものなのです。父なる神との和解、つまり信仰関係、信頼関係が与えられていることこそ、幸いなのです。

 私たちは何か嫌なことが起こればそれを災いとし、良いことが起これば幸いと思います。もちろん良いことが起これば素直に喜んで感謝してもいいのです。しかし私たちの環境や境遇が上手くいっていようと、たとえそうでなかったとしても、大切なことはそこで主イエスの十字架を通して父なる神を、信仰をもって見上げることです。父なる神との関係が和解されている、信仰関係、信頼関係が堅固であるならば、どんなところを通っていても、信仰、希望、愛を失わずに歩んでいけるのです。それが救われている者、主イエスの十字架によって父なる神と和解している者の幸いなのです。



(1日1章 Ⅱコリ9章「良いわざに富ませる力」)

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