FC2ブログ

北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

何事もなかったかのように

 GW中の主日礼拝。前の週の北海道聖会の余韻を残しつつ、今年もペンテコステを前にして「使徒の働き」講解の続きとして、聖書のメッセージを分かち合いました。

 「使徒の働き」を貫く聖霊の恵みに打たれながら、果たしてどこまで皆さんに届いているのだろうかという少々の不安と講壇の上で闘っていました。GWという社会の雰囲気もあるのからか、あるいは説教者の私自身が空回りしているのかも(笑)それでも聖餐の恵みに与る時には、新しい主の力をご一緒に受け取ることができました!

 午後から特に予定も無い日曜日。何名かの方々と昼食を共にしながら、近況や分かち合いをしつつ過ごしました。礼拝と聖餐と愛餐は、1つなんだろうなあと暖かい日を過ごしました。以下は礼拝メッセージの断片集です。
 
20190505
(250字のエッセンスは、コチラ

 テサロニケに行った時のパウロの様子は、どんな様子だったのでしょうか。16章でパウロとシラスは、その体に鞭を打たれているので、きっとひどい傷跡があったはずです。体だけではない、謂れのないことを言われ、囚人扱いもされ、困難を通ってきました。しかしそれでもパウロたちは、そういう傷を引きずっていないということに驚くのです。

「彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った」(17:1)。何事もなかったように淡々と聖書は記しています。まるで傷や痛みはピリピに置いて出発したかのようです。パウロやシラス、私たちの信仰の先輩者たちは、いつまでも痛みや傷にしがみついていないのです。それは十字架と復活の主イエスによって救われているからです。

 「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならない」(17:3)。そう語ったパウロたちは、「主イエスが苦しみを受けたのであるならば、私の人生にも苦しいことがあって当然。しかし苦しみは苦しみに終わらない、復活の主イエスが助けてくださる、救ってくださる、ご一緒に歩んで下さる」という信仰に立ち、痛みや傷、人のした悪を引きずり続けない力が与えられていったのでしょう!

 パウロやシラスは、痛みや傷に囚われていたのではなく、キリストに捕らえられていたのです。パウロたちは人のした悪で心をいっぱいにしたのではなく、救い主の愛で満たされていたのです。



 ねたみって恐ろしいものです。人間の罪の深いところにあるものです。ねたみは愛の邪魔をします。何故人はねたみを持つのでしょうか。今日の聖書から説明するならば、心の王座にイエスを王として迎えていないからだと言えるでしょう。愛と赦しと平安を与えるキリストを王として迎え入れていない心に、ねたみが湧くのです。ある面、自分が王になり、自分の思う通りに生きようとします。それを邪魔する者はゆるせない、憎い、そしてねたみを持ちます。その結果、ねたみにかられたユダヤ人たちのように、人と人との関係を壊し、不安になり、損得を数えながら生きていくことになります。

 しかしキリストを王として向かいれる時、これらのこととは反対のことがらが起こります。王というのは、権威と力を持っています。王である主イエスは、悪や罪を打ち負かす力があるからです。



(1日1章 Ⅱ列17章「ひそかに行い」)

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 北見情報へ
にほんブログ村

日記 |
| ホーム |