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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

何を怒っていますか

 5月19日(日)、前日の夜遅くに出張から帰ってきましたが、気持ちよく目覚めた日曜日の朝でした。妻からは「イビキがうるさかった」と言われましたが・・・。

 礼拝後は挨拶もそこそこに、急遽、私たち夫婦は紋別へ出かけることになりました。その時のことは後日に記す予定です。当初、特に何も用事が無いようであれば、Kids Churchに集っている子どもたちのピアノの発表会に行こうかなあと思っていましたが、また別の機会ということになりました。後で演奏の様子を動画で送ってくれました。それを見ながら拍手を送っておりました。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

20190519
(250字のエッセンスは、コチラ

 パウロはその手紙の中で、「怒ることがあっても、罪を犯してはならない」、また怒りは肉の働きであって、御霊の実ではないことを教えています。しかしそのパウロが、アテネの街で霊に憤りを覚えているのです。しかしこれは決して矛盾していることではありません。

 私たちキリスト者も、パウロが経験したように、神の義が損なわれるような時、神の御名がないがしろにされているような時など、神に関することでの怒り、霊の部分の憤りを覚えることがあっても良いのです。

 肉の働きとしての怒りは、破壊的になっていき、悪魔の働く機会となっていきます。一方、霊の憤りは違います。パウロは霊の憤りを感じた後、どうしたでしょうか? ユダヤ人の会堂や広場に行ってイエスと復活を宣べ伝えました。聖なる憤りは聖霊の働く機会となり宣教の情熱を生み出すのです。
 
 15節を読むとパウロはシラスとテモテを一刻も早くアテネに来るようにと伝えています。16節、パウロはアテネで二人が来るのを待っている時、数々の偶像を目にして、霊の憤りを覚えました。そして二人が来るのを待ちきれない、一人で会堂や広場に出かけ主イエスを伝え始めたのです。私たちは何に対して怒りを覚え、またその結果としてどういう行動に至っているでしょうか?よくよく吟味する必要があるでしょう。



 主イエスを信じる信仰というのは、生活と遊離するものではありません。私たちの罪のために十字架にかかり、死んで甦り、私たちと共に生きてくださる主イエスを信じて生きるということは、私たちの生活の力となっていくのです。

 私たちはアテネの人々のように暇つぶしの論議をするような信仰を持っているのではありません。日曜日は休みだから教会に行くということでもありません。主イエスが復活されてた日曜日の朝、私たちは心から礼拝を捧げます。それは月曜日から土曜日までの私たちの生活の生きる力、現実に働く力となっていくのです。諦めそうになっているものを続けていく力、不安や恐れに打ち勝つ力、希望をもって歩んでいく力、寛容になれる力、キリストは私たちに生きる力与えてくださるのです。



(1日1章 ガラ6章「十字架以外に」)

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