FC2ブログ

北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

ちゃんと戻ってきました

 もう過ぎ去ってしまったのでは・・・と思わされるようでしたが、ちゃんと夏が戻ってきた7月21日(日)。冷房をオンにしながらの礼拝となりました。

 礼拝後にお弁当愛餐会で昼食をいただきながら行う恵みの分かち合い(グレース・シェアリング)を、最近は人数が増えているので3つのグループに分かれて行っています。それでも各グループのリーダーが分かち合われた中での特記事項を全体に紹介し、最後に一緒に祈っているので、「一つになって」いる感は失われていません!

 礼拝メッセージは、毎年ペンテコステの前後に「使徒の働き」を2章ずつぐらい分かち合っているところが終わったので、旧約聖書から新しく「アドナイ」シリーズに入っていきます!以下は、礼拝メッセージの断片集です。

20190721
(250字のエッセンスは、コチラです)

 神がアブラハムにイサクを捧げるようにと言われたこと、これは聖書に記されているように神からの試練でした。神が私たちを試練に会わせるって、ちょっとひどくない・・・そう思われるでしょうか。

 サタンが私たちを試みる時も確かにあります。その場合、その試みを「誘惑」と呼ぶことができるでしょう。誘惑に会うことは罪ではありませんが、誘惑に負けてしまうことは罪となってしまいます。サタンが私たちを試みる時、その目的は、私たちの中にある罪や悪を引き出そうとし、神から引き離そうとするものです。

 しかし、主なる神が私たちを試みる時、それは私たちの信仰を引き出し強めるためなのです。神は、試みを通して、私たちを砕き、練り、清め、善いものを引き出そうとされるのです。つまり、心を痛める試練を通ったけれども、それで生きることが嫌になっていくのではありません。むしろ、その試練を通ったからこそ知り得ることのできる主の備えがあるのです。



 22章に入る直前、アブラハムは永遠の神に祈っています。永遠の神とは、過去も現在も未来も、全てを支配しておられる全知全能の神のことです。イサクを捧げるということは、アブラハムにとっては到底、理解不能のことです。過去の神の約束、現在の状況からどんなに考えても、アブラハムは理解できなかったでしょう。しかし永遠の神を信じているアブラハムは、未来は主のもの、主に委ねていこうという信仰を持ったのです。永遠の神を信じ、祈り、礼拝する者は、現状では見ることのできない、やがて与えられる主の備えを、確かに体験させていただけるのです。



 父であるアブラハムと子であるイサク、父が子を献げるというこの22章の出来事は、父なる神が子なる神キリストを子羊として十字架において献げるという出来事の、ある意味において雛形となっています。アブラハムはこの時、最終的には、イサクの代わりに雄羊が与えられました。しかし、主イエスの十字架では、身代わりは与えられません。むしろ主イエスが罪人の身代わりとなられました。アブラハムがイサクの上に刃物を振り上げたとき、「もうそれで良い」と天から声がありました。しかしローマの兵士が、主の手にくぎを打ちこもうと重い槌(つち)を振り上げたとき、「もうそれで良い」と言う声はどこからも聞こえませんでした。父なる神は、文字通り御子の血を流さなければならなかったのです。

 「血を流すことなしに罪の赦しはありえない」から、父なる神はその心を痛めながら、御子キリストを十字架に掛けるという方法をとられました。それは私たちを愛する父なる神の御心なのです。そして主イエスも私たちの救いのために、罪や悲しみ、痛みを背負われ、父なる神の御心に従われました。

 アブラハムにイサクをささげることを求めた神とは、無理難題を私たちに押しつけ、自分は平気な顔をしている、「とにかく従え」と、冷酷でいじわるなことをなされる神ではありません。私たちのために、その独り子をも惜しまず、十字架に献げられる神なのです。私たちの信じないという罪を赦す、愛を分かるようにする、あわれみに富んでおられる神なのです。

 そういう真実な父なる神の声を聞き、神に従ったアブラハムが、アドナイ・イルエなる神、主の備えを体験しました。試練の中で動揺する時もある、先のことを思って不安になることもある、そんな私たちですが、永遠の神を仰ぎ、神の御心に聞き従っていく時に、私たちもアドナイ・イルエを体験させていただけるのです。



(1日1章 Ⅱ歴28章「悩みの時にあたって」)

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 北見情報へ
にほんブログ村

日記 |
| ホーム |