北海道の9月とは思えないほど、暑い日となりました。礼拝の中でメッセージの主題に合わせて、「主がここに」という賛美を歌いました。北見では初めて賛美した曲でしたが、皆さんすぐに歌えているようでした。礼拝に初めて来られた方もおられ、感謝でした。以下は礼拝メッセージの断片集です。

(250字のエッセンスは、
コチラ)
1人きりになっているヤコブに対して、天から梯子がかけられました。梯子は普通、高い所に登るためにかけるものです。しかしヤコブが見たのは天から自分に向かって架けられる梯子でした。石ころを枕にするしか無い、何もない自分に、天から梯子が架けられ、御使いが上り下りしているのを見ました。ヤコブを1人にはしない、ヤコブのためならば、天の御使いをも使わす、そういう父なる神の思いがこの梯子にあるのでしょう。
マタイ18:20で、主イエスは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と言われました。主の御名によって集まる主の教会に、礼拝の中に主はおられるのです。教会はキリストの体、血の通ったキリスの体 主の教会に主がおられないことは、あり得ないことなのです。

神のために生きることを土台とする時、それは結果として、他者のために生き、また自分を生きていくということになり、命が生き生きとします。しかし自分のために生きるということが土台になると、残念ながら、全てが崩れていくことになります。なぜなら、人は神のために生きる者として造られているからです。
神のために生きるということ、それは神と共に生きるということから始まります。神と共に生きることで、神の愛に満たされ、また隣人を愛することになり、人を恨むのではなく愛が心に満ちているという状態は、自分自身にとって幸いなこととなるのです。今週も主なる神と共に生きる、主がご一緒して下さる、そのことを大切にして参りましょう。
(最後に賛美した「善き力にわれ囲まれ」)
(1日1章 エステル5章「
怒りに満たされた」)
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