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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

課題 【No.37】

 ここ何ヶ月、否、数年来、私にとっての課題があります。それは私の「対処」についてなのです。

 例えば、ある方の発言を聞いた時に、その言葉自体は筋が通っていて、もっともなことであり、正論なのですが、言葉の背景や土台にその方の「ねたみ」や「自己憐憫」、「自分を認めてもらいたいための他者批判」のようなものを感じるのです。これはあくまでも「感じる」のであって、客観的な証拠などはないので、私の推測の域を出ず、もしかすると私の勘違いの時もあるでしょう。

 決して「批判を受け付けない」ということではありません。言葉の土台に「愛」がある時の批判や建設的な発言の場合、むしろ「よく言って下さった」と思うのです。しかしどんなに良いこと、正しいこと、もっともなことを仰られていても、私には後味の悪いものしか残らない、そんな感じのする時があります。

 少々きつい表現ですが、「愛のない正義」、「筋道を通すことによっての自己表現」、「自己防衛のための他者批判」・・・その土台は、自己憐憫、ねたみ、そねみのたぐいだと感じるのです。

 そういう「ねたみ」を背景とした発言を聞く時、正直なところ「嫌だなぁ」と思うのです。時には憤りさえ感じることもあり、また悲しくなってしまうのです。そしてそういう方とは、あまり話したくないなぁと思ってしまいます。(自分もそういう発言をすることがる、ということはちょっと横に置いています)

 実は、これが私の課題なのです。「ねたみ」を背景とした発言だと感じた時、私がどのような「対処」をするかということです。話している方の口を閉じることも、私の耳を閉じることもできません。私がその言葉に、否、その人自身にどのように向き合うかが問われているのですが、どうしても「嫌だなぁ」という思いが先立ってしまうんですね~。

祈り

 ある方が書かれたものの中に、こんな文言がありました(孫引き)。

「人からむかつくことを言われた時、
  三流の人間は言い返す、
  二流の人間はがまんする、
  一流の人間は気にしない、
  超一流の人間はその人の幸せを考える」

 人間を何流と分けるのはいかがなものかと思いますが、確かにこの4タイプに分かれていくのでしょう。4タイプの人がいると言うよりも、同じ人が事と場合によって4タイプの反応をしてしまうのでしょう。

 「その人の幸せを考え」、祝福を祈る、これはキリストそのものですね。そしてキリストそのものを生きるのがキリスト者なのですが、私の「対処」は、どうも程遠いものになっています。

 そして相手を責める思い、遠ざかりたいという気持ち、裁く思いになるのと同時に、そういう対処しかできない自分に情けなさを感じてしまうのです。本当は祝福したいのに、そうできない自分に腹を立てるのですが、実のところ、そんな自分を嫌にならないように、相手の非難をそれ以上につぶやいているのです・・・。

 人の嫌なところを見て嫌だなぁと思う自分を嫌だなぁと思わないために、さらにその人の嫌な部分を口にしている自分、本当に嫌だなぁと思うのです。(ちょっとややこしい日本語ですが、分かりますか?)

「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。私は、ほんとうにみじめな人間です。誰がこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」ロマ7章15、24節



 これはもうロマ書7章の世界に迷い込んでいるのですから、ぶつかりながら、もがきながら、8章の世界に入っていく以外にないなぁと、自分の課題を静かに見つめている次第であります。でも「ロマ書7章の次には8章がある」、そこに希望を見出しています。


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