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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

小さなとげ

 今年も毎朝、妻と一緒に教会の聖書日課である聖書を1章読んで、礼拝堂で共に祈る時を持っています。昨日はⅡサムエル記17章を読みました。私と妻で交代に1節ずつ声に出して読んでいます。そして互いに教えられたことなどを短く分かち合います。

 そこで気になった人の名前が「アヒトフェル」という人物です。「アヒトフェル」の言動の何かが気になったわけではありません。実は「アヒトフェル」の名前が、どもって出てこないのです・・・。私の読む番なのに、数秒間の沈黙が何度か続きました。

 私は緊張すると、母音(あいうえお)が上手く発音できないのです。妻といて緊張しているわけではないのですが(笑)、何故か急にスムーズに発音できなくて焦ってしまいます。

 幼少の頃、カルタ取りの読み手で嫌な思いをしたことがあります。学校で本読みを指名されて、角度の「角」が言えなかったことがあります。日常生活に支障はなかったのですが、思い出したかのようにどもっていました。

 それでも主イエスが共におられる神様(インマヌエル)だと知って、少しずつですがだんだんと人前でも話すことが出来るようになりました。

 電車通学をしていた高校生の頃、新今宮という駅の看板に、「どもり、小心、あがり症・・・治します」と記されていました。その時、「自分のどもりは、小心、恐がりからきていたんだ」と合点しました。

 大学を卒業した後、2つの職業とも教師と牧師という、人前で話しをすることをもっぱらとしています。主イエスが共にいるから大丈夫だという安心感で、どもりは大部分、癒されているのですが、まだ母音が出ない時があります。

 結婚式の聖書朗読の役を仰せつかった時は、どうなることかと思いました。Ⅰヨハネ4:7-12に、「愛」という言葉が15回も出てきます。しかもしょっぱなが「愛する者たちよ」でした。

 何度も練習をしたのですが、本番、最初の言葉が出ないのです。口を開いて発音しようとするのですが、「愛」が出てこないのです。何とかやっと「あ、あ、愛する者たちよ」と出てきたのですが、その間の数秒ぐらい、時間がとまったような長い時間でした。

 神の愛を伝える牧師が、その「愛」を発音できない時がある、耳が聞こえないままに作曲し指揮をした晩年のベートーベンのような、大きなハンディキャップのようなものを感じます(言い過ぎかな?)

元旦の夕陽
(元日の日、初日の出ならぬ初夕陽。)

 母音がなかなか出ないことがあるという小さなどもりは、私にとっては小さな「とげ」のように思っています。まさに焦って変な汗が出て、ちくちくするような「とげ」なのですが、それはパウロが言っているような恵みを知る「とげ」でもあります。

  「『わたしの恵みはあなたに対して十分である。
   わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。
   それだから、キリストの力がわたしに宿るように、
   むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」
 Ⅰコリント12:9


 この小さな「とげ」があるからこそ、私は必死に主の助けを祈ります。私の言葉が詰まって、神様の言葉まで詰まらせないように、私のどもりのせいで、人々の意識が神様以外のところへ向かないように、私の言葉の詰まりが、神様の恵みを妨げることがないように、必死な思いで礼拝前、礼拝中、聖霊の助けを祈ります。

 「一言多かったなぁ」と反省することは山ほどあるのに、どもって大切な言葉が出てこない時、もどかしさと無力さを感じます。

 出来ればこのどもりという小さな「とげ」は無い方が良いのですが、もっとひどかったどもりを主が癒して下さったことを忘れないように、話せなかった者を話せるようにして下さった神様の恵みを思い起こすために、そして自分の力で出来るというおごり高ぶりから守られるため、私にはこの小さな「とげ」が必要なんだろうなぁと思います。

 数秒間「アヒトフェル」の名前が出てこなかった昨日の朝、今年もこの小さな「とげ」と戦いつつも、その私の弱さから主の強さが現れることを切に願い、主の恵みの通り良き管となれるよう祈らずにはおれませんでした。


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