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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

あっぱれ

先週、「人生時計」や「人生の四季」を紹介しました。
1つの目安として、いろいろ考えることができますね。

しかし平均年齢というものはあくまでも平均であって、
人生の「正午」や「夏」と思われる時に、
突然早逝することもあり、それは例外とは言えないものでしょう。

30歳の吉田松陰は、処刑される前日に『留魂録』を書き留めました。

「自分は30歳で死のうとしているが、大事を一つも果たさずに死ぬのは、仕事で育てた穀物が生長せず実もつけなかった状態に似ており惜しむべきことかもしれない。しかし松陰は、・・・自分については花が咲き実りを迎えた時なのであり、必ずしも悲運を嘆くにはあたらない、と言い切るのだ。人の寿命には定めがあり、農事のように必ず四季を経るものではない。10歳で死ぬ者にも、その10歳のなかに四季が備わっており、50歳、100歳でも各年齢相応の四季があるのだ。・・・

 30歳になった自分はそれなりに花を咲かせ実をつけているはずだ。ただし、それが籾がらにすぎないのか、十二分に実の入った穂なのかは知らない。松陰は、自らを地に落ちる一粒の種にすぎないと謙遜しているのである。もし自分の精神を受け継いでくれる人がいるなら、まかれた種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じであり、収穫のあった年に恥じないだろう」 山内昌之『歴史の中の未来』より


何歳の生涯を送ったとしても、それぞれに四季があると言う30歳の松陰に、
「あっぱれ」と思わずにはおれません。

「一粒の種」に「一粒の麦」を思い出さないキリスト者はいないでしょう。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。・・・今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。父よ、み名があがめられますように」 ヨハネ12:24―25、27-28


主イエスは心を騒がせながらも、ご自身の時をしっかりと見つめ、
30数歳で一粒の麦となられました。

結局のところ、どれだけ生きたかということも大切ですが、
いかに生きたか、生きていくのかが問われているのでしょう。
そしていつまでも残るものだけが確かに継承されていくのでしょう。

一粒の麦

最後に、お会いしたことはないのですが伝説のように語られる大先輩、
57歳で天に召された伝道者の言葉を思い出しました。

「連日激しい症状と生命の脅しの中に重荷を負って毎日出ました。ただひたすらなる祈りは死ぬ事の問題でなく、どこで急逝しても神の僕として恥しくないようと祈って来ました」 川崎一『北風よ起これ 人生五十年の回顧』より



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