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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

くびきを負う

先週「1日1章」の教会聖書日課でエレミヤ書を読んでいて、
エレミヤ書27章は私にとって1つの節(ふし)となりました。

「 しかしバビロンの王のくびきを首に負って、彼に仕える国民を、わたしはその故国に残らせ、それを耕して、そこに住まわせると主は言われる』」           エレミヤ書27:11


誰しも異国の、異教の、極悪なバビロン王に仕えたいとは思いません。
他の預言者が語るように、仕える必要がないとさえ思います。

しかしエレミヤを通して神が語られるように、
人は誰しも「バビロン王のくびき」を首に負うことがあります。

くびき何て負いたくないし、自由に生きていきたいのです。
しかし神から負うように課せられるくびきがあるのです。

神からのくびきを自ら取り去ってしまったり、逃げてしまうと、
新たなくびき、鉄のくびき(28章)が一層重くのしかかってくるでしょう。

くびき
(wikiの「くびき」より拝借)

神からのくびきであるならば、それを背負うことによって、
開かれていく世界があります。

それはさながら、創世記32章で神の使いと格闘をしたヤコブが、
もものつがいを打たれて不自由な体になったにも関わらず、
むしろイスラエルとして祝福されていくことを思い出させます。

また詩篇105篇でヨセフのことが歌われていることも思い出します。

「あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。
 主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ 
 首に鉄の枷をはめることを許された
 主の仰せが彼を火で練り清め 
 御言葉が実現するときまで」 詩篇105:17-19


ヨセフは枷(かせ)をはめられながらも、主と共に歩み、
やがて主の偉大な計画の中で用いられていることを知るのです。

ヨセフは枷・くびきを背負いながら、
人が図った悪を神は善に変えてくださることを体験しました。

主イエスもくびきを背負われました。
そして主イエスのくびきを負っていくことを教えています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)


多くのキリスト者が愛してやまないマタイ11章28節ですが、
29節と30節を忘れてしまう時、真の休み(平安)はありません。

宮村武夫先生も以下のようにされています。

 28節だけでなく、29節と30節も宣べ伝える特権と義しい務めを私たち日本の教会は委ねられています。それなのに大局においては28節を29節と30節から切り離して宣べ伝えてきたのではないかと、自らを省みて危惧の念を抱くのです。神の命令から切り離された愛が本来のものであり得ないように、キリストの軛を担う「愛の労苦」(Ⅰテサ1:3「あなたがたの信仰の働き、愛の労苦」)を軽視、また無視するところでは、28節のメッセージも真の意味(罪と神の義の展開としてのそれ)では受肉しないかと。                             『宮村武夫著作集Ⅰ 愛の業としての説教』より


確かにくびきは嫌なものです。
もものつがいを打たれたヤコブのように不自由を覚えます。

しかし人にはそれぞれ背負うべきくびきがあります。
それは主から委ねられているくびきでしょう。

ある人には持病のような病、試練のひと時、特殊な環境、
パウロのとげ、家族のこと、教会のこと、地域のこと・・・。

この世は完璧な世界ではないので、誰しもくびきを負って歩んでいます。
極悪なバビロン王というくびきのように思えて、
ちゃぶ台をひっくり返すようにくびきの除去を望む気持ちになります。

マタイ11:28-30

しかし主が与えられた主のくびきとして背負っていく時、
重荷が重荷ではなくなり、むしろ背負いながら軽くなっていく、
そして真の休み(平安)が与えられていく、
主イエスはそういう世界に私たちを招いて下さるために生まれました。

私のくびき、否、主からのくびきを、
主と共に一歩一歩背負わせていただきます!

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